京商●こだわりの系譜 妥協なき姿勢の証言に、耳を傾けて欲しい。

世界選2階級制覇を実現した男。 二階堂 嘉信

WEB:
そうですね。1/8オンロードレーシングは京商がR/Cメーカーとして歩み始めたスタート地点ともいえるジャンルですからね。その流れを汲むファントムの名は世界中に知れ渡っていますし。


二階堂:
その通りです。当時を知っている社員、といってもボクより凄い先輩ですけどね。その方達も、うずうずしていました。折しも21世紀を迎えるに当たって、それに相応しい新世紀プロジェクトを立ち上げようという話も出ていまして、現会長の鈴木明久が「ファントム復活プロジェクト」にgoサインを出したんです。会長も初代ファントムの活躍のリアルタイムな目撃者ですからね。空気が高まるのを待っていたんじゃないかと、今では思っています。

WEB:
なるほど。内部圧力が高まってきて、結果として会社からお墨付きが出た。そしていよいよ動き始めるわけですか。


二階堂:
はい。でも会長、当時は社長ですが、掲げた目標が立ち上げの'98年から5年以内にIFMARの世界選手権でトップを取る事、というゴールが言い渡されたんです。京商の歴史の始まりを作ったジャンルを制覇しないでは、新しい歴史は作れないって。

WEB:
凄いプレッシャーですね。


二階堂:
そうなんです。でも、だったら予算は潤沢に付けてくれるかもといった期待もしましたけどね(笑)。当時は日・米・欧のメーカーが鎬(しのぎ)を削っていて、中途半端な体制じゃ絶対勝てない状況でしたから。こちらもそれなりの覚悟と準備をしなければならなかったんです。スタート時のプロジェクトリーダーには笹井に立ってもらい、不眠不休体制で臨みました。CADを駆使して図面を起こし、それを形にして試すの連続。床で仮眠してまた始めるみたいな生活を続けました。それくらいどっぷりつからないと出来ない世界なんですよ。まさしくR/Cカーのフォーミュラ カーなんです。名実ともに。テストドライバーには笹井を始め、ワークスドライバーの下選手と高麗選手が当たり、1999年の全日本からは宮下も加わりました。

WEB:
そしてデビュー戦は?


二階堂:
1999年のフランスでの世界選手権でした。後のファントム2001となるんですが“ファントムプロト”と命名した完全新設計のマシンでした。セミファイナルには残ったんですが、ファイナルには惜しくも届きませんでした。でもその後進化を果たした“ファントム・コンバージョン”が、2001年の世界選手権オーストラリア大会ではファイナルに4台進出しました。同年の全日本選手権では優勝する事が出来ました。次に発表した“ファントム・エボリューション”は2002年も全日本選手権を獲得しました。でも、どうしても海外の成績が上がらない。ヨーロッパ選手権でも今一歩だったんです。日本では強いのに・・・。




WEB:
悩んだんでしょうね?何故だろうと・・・


二階堂:
ええ。で、これも実車フォーミュラ カーと一緒なんですけど、もう日本のメーカーというナショナリズムを捨てねばならない時期に来ているなと、そういう風に考えたんです。そんな意識改革が2002年を境に進み、次第に実を結び始めました。マシン設計もですが、研究開発体制や、レースに臨むソフト部門での手法をガラリと変えていったんです。積極的に海外選手とコンタクトを取って、開発協力を仰いだのもこの頃からでした。


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